大叔父・川島正次郎の時代

川島 正次郎(かわしま しょうじろう)

1890年(明治23年)~ 1970年(昭和45年)

日本の戦前・戦中・戦後の政治家で、自治庁長官・行政管理庁長官・北海道開発庁長官・東京オリンピック初代大臣・自民党幹事長・成田山奉賛会・初代会長、日本プロレスコミッショナーを歴任。
川島派(交友クラブ)領袖で、自由民主党副総裁として、自民党のナンバー2に君臨した。
専修大学・総長、千葉工業大学・理事長・会長、成田山奉賛会・初代会長を歴任。

東京日本橋で柳原家に生まれ、出生後まもなく母が死に鼈甲屋を営む、川島才次郎の養子となった。
正則英語学校を経て、旧制専修大学経済学科に学び、専修大学卒業後、内務省・警保局に入省した。

警保局とは、選挙時に情報を集める部署であり、川島は選挙の分析から次第に選挙そのものに関心を抱くようになり、内務大臣の後藤新平(医師、官僚、政治家、ボーイスカウト日本連盟・初代総長)と知り合った。
東京日日新聞(現毎日新聞)政治部記者に転じ、東京市長となった後藤新平の引きで、東京市商工課長となった。この時期築地市場のとりまとめを行った。

1955年(昭和30年)、第2次鳩山内閣で自治庁長官と行政管理庁長官(当選9回目に初入閣)に任命され、保守合同つまり自由民主党結成に深く携わった。
鳩山内閣退陣後は、保守勢力の安定を見届けるとただちに岸信介政権の樹立に動き、岸内閣で自民党幹事長に就任。
岸政権では、幹事長として戦後復興の最重要課題となる日米安保条約改定を指揮し、小沢佐重喜氏(小沢一郎氏の父)を安保特別委員長に起用し、 安保条約を可決し、長い日米の安定的関係の基礎を築いた。同時に日米地位協定も締結されている。
池田政権でも、東京オリンピック初代大臣として東京への誘致、首都高、新幹線、ホテルニューオータニなどのホテル群、武道館など様々なインフラ整備を推進しながら、所得倍増論を実現した。池田政権末期に自民党副総裁に就任。

1962年(昭和37年)岸が派閥を福田赳夫に譲ることに反発し、翌11月岸派を川島派「交友クラブ」と福田派(後の清和会)に分派し、派閥の領袖になった。
従って、清和会の兄弟は川島派ということになる。
佐藤政権でも自民党副総裁に任命された。(与党ナンバー2の地位を保ち続けた)
国際空港となる成田空港建設も地元千葉県にて推進した。

1968年 沖縄返還の交渉に川島が当たり、この年ようやく日本への返還が両国の水面下で決まった。
福田のライバル田中角栄を自民党幹事長などに起用、総理総裁への道を開いた。

川島正次郎は、佐藤栄作の総裁3選の9日後、持病の気管支喘息で死去・享年80才。
息子であった正孝を幼少の頃亡くしていたため、身内からは姉千代の三男平山善司氏(後の中央学院大学理事長)に 川島事務所の経済担当秘書をさせていたが、現在、親族としては善司氏の次男平山秀善氏(現在 交友クラブ会長)が政治的基盤を受け継いでいる。

自民党政権の歴史

1955年(昭和30年)に、自由党と日本民主党の「保守合同」により結成された、保守政党。
鳩山、緒方、三木、大野や川島正次郎らの尽力で、ブリジストンの創業者・石橋正二郎をスポンサーとして自由民主党を立ち上げた。

太平洋戦争(大東亜戦争)前の二大政党、立憲政友会と立憲民政党を遠い起原とし、戦時中の翼賛政治の 中核を担った会派である翼賛議員同盟と翼賛政治会と大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)及び翼賛政治に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)と護国同志会(日本協同党の前身)また敗戦直後に結成された日本自由党と日本進歩党と日本協同党の流れを汲む。
党の運営は、ベテラン政治家が「派閥」を形成して、派閥間での駆け引きで政治が行われていた。
理由は、一つの選挙区に複数候補を立てる必要のある「中選挙区制」が採用されていたためである。
中選挙区制とは、同じ選挙区の同僚議員は、同じ政党でありながら当選を競い合うライバルであり、立候補者は党本部の応援を独占することができず、選挙区で個人の「後援会」を組織し、大物政治家の「派閥」に加わり平時はその政局の駒となるのと引き換えに選挙においては派閥の援助を受けた。
互いに有権者の歓心を買うため、「金権政治」の温床ともなった。

自民党は、貧しい地域や地方に補助金分配と公共事業を行い、護送船団方式で規制を設けることで、様々な業界を保護してきた。
その結果、都市部の国民から支持を失いながらも相対的な平等が一億総中流国家として達成された。 (「戦後の自民党体制は成功した社会主義であった」との皮肉もある)

日本では55年体制で、野党第一党であった日本社会党がマルクス・レーニン主義の社会主義を主張していた。
西欧で左派第一党として多かった社会民主主義を主張していた政党は日本には存在しなかった)
結成直前の1954年(昭和29年)~1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ合衆国国務省)の反共政策に基づいて、中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった。

CIAは、日本に社会党政権が誕生するのを防ぐことを目的に自民党に金を渡し、さらに選挙活動に向けたアドバイスを行っていた。
(現在米国政府はこの事実を認めているが、他方で自民党はこれを否定している)