川島正次郎その②

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川島正次郎(近代日本の父)その2

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相次いだ家庭の不幸 〜森格が急逝、前田米蔵の側近に〜
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4回シリーズで交友クラブ川島正次郎先輩をご紹介させていただきます❗️
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川島正次郎は浜口雄幸民政党内閣の下で行われた総選挙で2回目の当選を果たした。
川島の親分である森恪政友会幹事長は浜口内閣打倒に執念を燃やした。
1931年(昭和6年)2月の衆議院予算総会で
政友会の中島知久平がロンドン軍縮条約を追及した際、
幣原喜重郎臨時首相代理
(浜口首相は狙撃されて重傷を負い入院中)は
「現にこの条約は御批准になっております。
御批准になっているということを以て、
このロンドン条約が国防を危うくするものでないことは明らかであります」と答弁した。

ーーー予算総会室後ろの議員傍聴席で幣原答弁を聞いていた森恪はすかさず
「幣原!取り消せ、取り消せ」と絶叫した。
その時、予算委員の川島は居眠りをしていたが、
親分森の絶叫に目をさまし、
にわかに立ち上がって「取り消せ、取り消せ」と連呼した。

「天皇陛下に責任を帰し奉るとは何事であるか」と
政友会議員はいきり立ち、議場は大混乱に陥った。

この騒ぎで入院中の浜口首相は国会に出席せざるを得なくなり、
国会出席で健康がさらに悪化して総辞職に追い込まれた。

ーーー🔵 相次いだ家庭の不幸このころ、
川島は家庭的な不幸に相次いで見舞われた。
初当選間もない昭和3年に幸夫人を病気で失った。
カネづるのない川島は選挙資金にも苦労したが、
独特の「男の美学」で芸者遊びを辞めなかったため、
夫人は気苦労の連続であった。

男やもめになった川島に同情して
松竹の社長だった大谷竹次郎が昭和4年、
川島と新派の美人女優・水谷八重子の見合いをセットした。

場所は大森山王の川島の自宅応接間。
川島は「家庭に入ったら芝居の方は断念してもらいたい」と申し込んだが、
水谷は「どうしても舞台を捨てることはできません」と答えて見合いは不調に終わった。

昭和7年4月には13歳になる
一粒種の長男正孝を敗血症で失った。
川島は昭和11年に赤坂の芸者だった政子夫人と再婚するが、
正孝以外の実子はいなかった。
川島は晩年に至るまで早世した長男の写真を肌身離さず所持していた。

ーーー1932年(昭和7年)、
犬養毅政友会内閣は総選挙で300議席を獲得して大勝し、
川島正次郎も3期連続当選を果たしたが、
同年の五・一五事件で犬養首相は暗殺された。

政友会は後継総裁に鈴木喜三郎を立てて政権の継続を目指したが、
政権は政友会を素通りし、
朝鮮総督・海軍大将の斎藤実が首相となり、中間内閣を組織した。
陸軍の圧迫で政党内閣は終わりを告げることになった。

ーーーこの斎藤内閣に政友会から
高橋是清、鳩山一郎ら3人が入閣し、
川島正次郎も海軍参与官(現在の政務官)に就任した。

海軍大臣は斎藤内閣の大黒柱である岡田啓介大将である。
衆議院に300議席を擁しながら政権が素通りした
鈴木政友会総裁は憤まんやるかたなく、
斎藤内閣に非協力の姿勢を示した。

岡田海相は斎藤首相の意を受けて議会乗り切りに政友会の協力を求めるため、
川島参与官を通じて政友会の実力者・森恪、
さらに鈴木総裁と会談を重ね、
斎藤内閣の早期退陣を含みとして政友会の協力を取り付ける道筋を探った。

こうした工作の結果、議会は無事に終わったが、
昭和7年末に川島の親分・森恪が50歳の若さで急死し、
岡田大将も海軍定年を理由に海相を辞任したので、
斎藤内閣と鈴木政友会総裁とのパイプは途絶した。

ーーー🔵 森格が急逝、前田米蔵の側近に森恪の急逝後、川島正次郎は前田米蔵の側近となった。
前田米蔵は苦学力行して弁護士になり、
政友会の有力者だった横田千之助と「横田・前田法律事務所」を設立、
東京から出馬して衆議院議員となった。

鳩山一郎とはライバル関係にあった。
鷹揚なお坊ちゃんタイプの鳩山に対して
前田は緻密な苦労人で、権力への嗅覚が鋭く、
常に主流派を歩むタイプの政治家であった。

当時の政友会は鈴木・鳩山派に対して
反主流派の床次派、久原派があり、
中間派として岡崎邦輔、望月圭介ら長老を中心とする旧政友系があった。

前田はこの旧政友系の有力者であった。

ーーー1937年(昭和12年)、
鈴木喜三郎政友会総裁が病気を理由に退陣を表明した。
後継総裁は前田米蔵が推す中島知久平と鳩山一郎が争ったが、決着がつかず、
中島知久平、前田米蔵、島田俊雄、鳩山一郎の4人が総裁代行委員となった。

政友会は中島・前田派と鳩山派の対立が激化して分裂含みとなった。
このころの川島は
「はやぶさの正次郎」と呼ばれるほど俊敏な動きを見せて
前田の側近として活躍した。

前田、川島らが担いだ中島知久平は海軍機関将校から身を起こし、
独力で軍用機の開発・生産の「中島飛行機製作所」を発展させて
「飛行機王」と称された人物で、豊富な資金力を誇っていた。

ーーー前田と中島はひそかに首相・近衛文麿に接近し、
近衛新党の結成についても協議を重ねていた。
人気抜群の近衛を担いで劣勢の政党勢力を挽回(ばんかい)したいとの思惑であった。
政友会は総裁決定をめぐって
中島・前田派と鳩山派の対立が深刻となり、
1939年(昭和14年)に中島・前田派は党大会で
中島知久平を総裁とすることを決定。

これに対抗して鳩山派は資金力のある
久原房之助を総裁としたため、ついに政友会は分裂した。
川島正次郎は中島総裁の政友会革新派に所属した。

ーーー1940年(昭和15年)近衛文麿は
第2次内閣を組織するにあたって
「新政治体制」を提唱した。
近衛の呼びかけに応じてすべての政党が解党したが、
意志薄弱な近衛は「新体制」の具体化で迷走した。

結局、出来上がった「大政翼賛会」は骨抜きにされて
「臣道実践の公事結社」となり、
政治活動は行わないとされた。

強力な政治体制を構築して軍部を抑えるという
近衛の当初のもくろみは崩れ去り、
日米交渉も暗礁に乗り上げて近衛は政権を投げ出した。

ーーー旧政党勢力も完全な思惑外れであった。
「バスに乗り遅れるな」の掛け声に乗って政党を解消したが、
「大政翼賛会」は単なる公事結社で、
期待した近衛はさっさと逃げてしまった。
行き場を失った旧政党勢力の大半は
「翼賛議員同盟」(翼同)を結成した。

翼同の実質的な指導者は旧政友会の前田米蔵と旧民政党の大麻唯男であり、
川島正次郎(旧政友会中島派)は
津雲国利(旧政友会久原派)、
三好英之(旧民政党)らとともに幹部になった。

翼同は基本的に東条内閣に協力姿勢をとった。
ーーー1942年(昭和17年)の翼賛選挙で
川島正次郎は非推薦で出馬した。

川島は翼賛議員同盟の最有力者・前田米蔵の側近であり、
軍部にはむしろ協力的であったが、
推薦母体の会議で軍部は川島に対して
「政党人的すぎる」と難色を示し、
軍部により従順な新人候補を推薦した。

この会議に出席していた前田は
川島の非推薦方針に憤然として席を立ち、
慌てた周囲が後を追うと温厚な前田が珍しく
「こんな席にはいられない。
こんなばかばかしいことには同調できない」と激怒した。

ーーー翼賛選挙で非推薦候補となった川島陣営は
官憲の厳しい弾圧を受けた。
運動員が相次いで警察に連行され、
誰かが釈放されるとまた別の誰かが連行されるという具合で
選挙中延べ500人が警察に身柄を拘束された。

それでも千葉県1区に強固な地盤を築いていた川島は
ぎりぎりの最下位で当選を果たした。
選挙後の議会では推薦・非推薦を問わずほとんどの議員は
「翼賛政治会」(翼政)に所属した。
翼賛政治会の指導者は総務会長の前田米蔵であり、
川島は非推薦議員だったが、実質的に翼政の幹部であった。

東条内閣退陣後の翼政会の人事で川島は情報部長に就任した。
ーーー🔵 公職追放中に読みふけった
「原敬日記」1945年(昭和20年)8月15日の終戦とともに
政党復活の動きが本格化した。
動きが速かったのは戦時中に軍部非協力だった鳩山一郎を中心とした
旧政友会鳩山派で自由党を結成した。
参加議員43人。
これに対して戦時中に翼賛政治会―大日本政治会の中心となった
旧政友会中島派と旧民政党の議員の大半は進歩党を結成した。
参加議員274人。
前田米蔵、川島正次郎らも進歩党に参加した。

しかし、昭和21年1月の公職追放令で
進歩党議員は274人中264人が公職追放となり、
立候補資格を失った。
生き残ったのは斎藤隆夫、犬養健らごくわずかで、
川島正次郎も公職追放となり、
6年間にわたる雌伏を余儀なくされた。

ーーー川島正次郎は公職追放中に
「三海水産」「山王建設」という2つの会社を経営したが、
いずれもうまくいかなかった。
商売の才能はやはり持ち合わせていなかったようである。
地元の千葉県は戦前から川島の選挙の中心となっていた
元県会議長の川口為之助が初の民選県知事になったこともあり、
選挙区の手入れは怠りなかった。
追放中に川島は公刊されたばかりの
「原敬日記」を熱心に読みふけった。
平民宰相原敬の全盛時代は川島も後藤新平の側近、
東京日々新聞の政治部記者として同時代を生きてきたので、
その面白さが手に取るようにわかった。

ーーー川島は原敬日記について当時、
地元の雑誌「房総展望」に次のように書いている。
「原敬日記はすばらしい本である。
(中略)日記であるから生々しい素材であり、
先日も原敬氏30周年追悼会の席上、
吉田首相は『総理大臣読本として愛読している』と礼賛していたが、
まさにそのとおりである。
ただ、吉田首相のやっていることが、
本の内容と相当のへだたりがあることは遺憾である。

原敬日記は一言にしていうと、
いかに原さんが官僚・軍部とたたかったか、
その権化ともいうべき
山県(有朋)桂(太郎)らとたたかいぬいてきたかということが
明らかにされている。
原さんという人は生前いろいろ世間から非難されたが、
今この日記を通じ人間すべて
棺を蓋うてしまわぬと
真価がわからないということが痛切に感じられる」

ーーー日経新聞参照ーーー
【写真】新進代議士時代の川島正次郎と
早世した長男正孝(川島正次郎先生追想録編集委員会「川島正次郎」より)
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森格(朝日新聞社提供)
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前田米蔵(毎日新聞社提供)
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公職追放中の川島正次郎(川島正次郎先生追想録編集委員会「川島正次郎」より)

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