深山 浩一郎さんFBより
川島正次郎(近代日本の父)その1
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後藤新平東京市長の秘書官に 〜見いだされ政界に〜
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4回シリーズで交友クラブ川島正次郎先輩をご紹介させていただきます
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川島正次郎川島正次郎(1890-1970年)ほど
政客と呼ぶにふさわしい政党政治家はいない。
歌舞伎役者のような独特の風貌。
背広のポケットに片手を突っ込み口笛を吹きながら颯爽と歩く姿。
権力への嗅覚が鋭く、
小派閥を率いて軽業師のように政界を渡り歩き、
自民党の幹事長、副総裁として政界の舞台回し役を演じた。
ーーー晩年の川島正次郎(川島正次郎先生追想録編集委員会「川島正次郎」より)
川島正次郎は1890年(明治23年)、
東京・日本橋浪花町(現在の日本橋富沢町)生まれ。
実父は長野県伊那郡出身の職人で実母が出産後に他界したため、
近所でべっ甲屋を営む川島才次郎の里子となり、
そのまま川島家の養子となった。
養父の川島才次郎は千葉県東葛飾郡行徳の出身で
日本橋に出てべっ甲店を開業していた。
川島正次郎が後に選挙区としたのは養父の出身地である千葉県である。
川島少年は地元の久松小学校高等科を卒業すると進学を希望したが、
養父はべっ甲店を手伝うよう命じた。
1年ほど店先で商売の見習をしたが、商売は性に合わなかった。
養母に頼み込んで夜間の正則英語学校に通い、
やがて内務省に吏員として就職し、
神田にある専修学校(専修大学)経済科に入学した。
ーーー当時の専修大学は経済科だけですべて夜間制だった。
こうして昼間は内務省警保局の吏員として働き、
夜は専修学校に通う生活が始まったが、内務省の仕事が忙しくなると、
学校に行けない日が多くなった。
それでも友人のノートを借りて
卒業試験だけは受けて何とか専修大学を卒業した。
卒業成績は56人中、55番だったという。
ーーー 内務省警保局の属官に専修大学を卒業すると
川島は内務省の属官として正式に採用され、
警保局の書記となり、警保局長の秘書の仕事に就いた。
この時、警保局で席の並べていたのが後に官選の
香川県知事、読売新聞副社長・主筆になった高橋雄豺である。
当時の高橋は陸軍士官学校を中退し、
巡査から警保局属官になって高等文官試験を目指していた。
川島は「仕事は僕がやるから君はもっと勉強しろ」と高橋を励ましたという。
ーーー1916年(大正5年)、長州軍閥の寺内正毅が首相になると、
内務大臣には後藤新平、
警保局長には永田秀次郎(後に東京市長、拓務大臣、鉄道大臣)が就任した。
永田警保局長の秘書になった川島の主な仕事は
全国の府県警務部から上がってくる各地の選挙情勢のとりまとめであった。
折から寺内内閣は衆議院を解散して
準与党の原敬率いる政友会と犬養毅の国民党を支援し、
加藤高明の憲政会の議席を減らそうとしていた。
そうした選挙戦の指揮をとっていたのが後藤新平内相であった。
ーーー大学時代の川島正次郎(川島正次郎先生追想録編集委員会「川島正次郎」より)
川島は選挙情勢を報告する永田警保局長のお供をして
しばしば後藤新平の大臣室に出入りした。
後藤のご下問に永田局長が答えに窮すると
属官の川島が要領よく説明を補足した。
これが後藤新平の目にとまり、
以降、川島は属官の身分でありながら後藤新平のお気に入りとなり、
世に出る大きなチャンスをつかんだ。
後藤が内務大臣を辞めて外遊に出ると川島も内務省を辞め、
外遊の随員に加えてもらうよう後藤に頼み込んだ。
後藤は「随員はすでに決まっている」と断ったが、
「1人で外遊してこい」と川島に気前よく7000円のカネを渡した。
ーーー 後藤東京市長の秘書官に後藤のカネで
川島は米国に渡り7カ月間、主として労働運動などを視察・研究して帰国した。
帰国後は永田秀次郎の世話で
東京日々新聞(現在の毎日新聞)に入社して政治部記者になった。
時の首相は政友会の原敬である。
1920年(大正9年)、
原敬首相は抜き打ち的に衆議院を解散したが、
この時、川島記者は目ざとく議会内で紫のふくさを発見し
「これは解散だ」と直感して素早く本社に連絡、
東京日々新聞は他紙に先駆けて衆議院解散の号外を出した。
当時、紫のふくさに包まれた詔書は解散のほかに議会停会の可能性もあった。
川島記者は一か八かの大勝負に出てスクープをものにした。
ーーー同年、後藤新平が原敬首相の薦めで東京市長に就任すると、
川島は東京日々新聞を辞めて後藤市長の秘書官になった。
第一助役は内務省時代の上司・永田秀次郎である。
秘書官と言っても仕事は後藤市長の来客の取り次ぎくらいで手持ちぶさたであった。
そこで川島は後藤市長、永田助役に頼み込んで東京市商工課長に就任した。
川島が商工課長時代に取り組んだのが、
東京市民の台所をまかなうために築地に大規模な中央卸売市場を新設することであった。
目先が利いて俊敏な川島は後藤新平にかわいがられた。
そのため「川島は後藤新平のご落胤(らくいん)」という説が後々までささやかれた。
ーーー後藤新平は1923年(大正12年)、
東京市長を辞めて同年に成立した第2次山本権兵衛内閣の内務大臣に復帰した。
川島も東京市を辞めて多摩川水力電気株式会社の常務になった。
後藤新平は第2次山本内閣に入閣した革新倶楽部の犬養毅と提携して
非政友会、非憲政会の強力な第3党を設立して政局の主導権を握ろうとした。
こうした形勢を見て川島は
後藤の勧めもあって総選挙に出馬することを決意した。
ところが、第2次山本内閣は
暴漢が摂政宮(昭和天皇)を襲撃しようとした
虎ノ門事件の責任をとって総辞職し、
政局は意外な方向に急転換した。
ーーー後藤新平を東京市長に推薦した東京市会の市長選考委員会メンバーと
後藤新平(前列右から4人目)=朝日新聞社提供
第2次山本内閣後の清浦奎吾内閣への対応をめぐって
政友会は1924年(大正13年)、
高橋是清派と床次竹二郎派に大分裂した。
清浦内閣が内閣不信任案を受けて衆議院を解散すると
高橋是清の政友会、加藤高明の憲政会、犬養毅の革新倶楽部は
護憲3派の盟約を結び、清浦内閣の与党となった床次竹二郎の政友本党と対決する構図になった。
この選挙に川島正次郎は
千葉県3区(東葛飾郡=現在の市川市、浦安市、松戸市、柏市、野田市など)から
護憲3派の統一候補として出馬した。
相手は政友本党の前職候補で京成電鉄社長の本多貞次郎である。
ーーー 2度目の総選挙で初当選33歳の新人候補者・川島正次郎のスローガンは
「日本中一人も食うに困らぬ政治」という青年らしい進歩的な主張であった。
この選挙で子爵・後藤新平は川島陣営に
「あの男は何か一仕事やろう、
一計画をやろうと少しもじっとして居られない男でね。
何をさしても抜け目はないさ。
つまり何をさせても役に立つから可愛い」と推薦の弁を寄せた。
選挙の結果は本多貞次郎4646、
川島正次郎4494、152票の僅差で惜敗したが、初陣として大善戦であった。
ーーー川島は1928年(昭和3年)に
田中義一政友会内閣の下で行われた総選挙に再チャレンジした。
川島は当初、憲政会に入党することを決意するが、
憲政会がライバルの本多貞次郎がいる政友本党と合併して民政党になったため、
最終的に政友会の公認候補として出馬した。
初めての男子普通選挙であり、
しかも小選挙区制から中選挙区制に切り替わり、
選挙区は定数4人の千葉県1区(千葉市、千葉郡、東葛飾郡、市原郡など)となった。
この選挙で川島は14316票を獲得して第3位で初当選した。
37歳である。
ーーー晴れて政友会代議士となった川島は森恪の子分になった。
恩人の後藤新平は1929年(昭和4年)に死去した。
森恪は田中義一首相兼外相の下で外務政務次官に就任した売り出し中の政治家であった。
三井物産出身で独立して中国大陸ビジネスを展開し、
所有していた炭鉱を満鉄に高く買い取らせて
政友会会に多額の献金をして代議士となった。
森恪の疑惑は「満鉄事件」として議会でも追及され、
捜査当局も動いたが、当時の司法次官・鈴木喜三郎の配慮で森恪は訴追を免れた。
これが縁となって鈴木喜三郎が政友会に入ると
森は鈴木派を支える有力者となった。
鈴木派のもう1人の有力者が鈴木の義弟である鳩山一郎である。
ーーー川島の親分・森恪は目先が利き、
行動力も抜群だったが、右翼の平沼騏一郎に接近したり、
軍部の鼻息をうかがうなど、政党政治の枠から逸脱するような面を持っていた。
ーーー日経新聞参照ーーー
【写真】
◆晩年の川島正次郎(川島正次郎先生追想録編集委員会「川島正次郎」より)ーーー
◆大学時代の川島正次郎(川島正次郎先生追想録編集委員会「川島正次郎」より)ーーー
◆後藤新平を東京市長に推薦した東京市会の市長選考委員会メンバーと
後藤新平(前列右から4人目)=朝日新聞社提供
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